鈴木真貴さんの給与明細の写し=2021年7月28日、手塚耕一郎撮影(画像の一部を加工しています) 「スーパーマーケットに行くと割引シールのついた食材を探します」「コンビニエンスストアでは長い間、買い物をしていません」。これは「最低賃金」で働き、生活している女性が打ち明けてくれた話です。最低賃金とは、法律で定められている、働いたことで得られる賃金の最低額のことです。年1回の改定に向けた議論が今年度も各地で本格化し、8月中には全都道府県で決まる見通しとなっています。話し合いに参加するのは使用者、労働者、有識者の3者。この中には、最低賃金で働く当事者は含まれていません。その暮らし向きはどんな様子で、この議論をどう見ているのでしょうか。
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「コンビニなんて、もう何年も入っていないですね。便利でも、ちょっとずつ高いから」
東京都内在住で、出版取り次ぎの下請け会社で働く鈴木真貴さん(47)は、そう言ってスーパーに入った。混み合う店内で、慣れた手つきで割引シールのついた肉や魚、野菜を素早くチェックする。
午後6時半を過ぎると、総菜や生鮮食品に割引シールが貼られていく。見回せば、目当ての商品にシールが貼られるのを待ち構える客も、何人かいるようだ。スーパーの関係者は「店が一番活気づく時間かもしれない」と打ち明ける。近くには割引が午後7時から始まる店もあり、鈴木さんはいい買い物ができなければそちらに行く。
よく買う食材はあいびき肉や豆腐、モヤシ、大根だ。週1~2回の買い物は毎回の予算が約2000円。ふと、以前取材した20代女性を思い出した。1人暮らしで安価なモヤシばかり食べ「母に『栄養のある物を食べなさい』って注意された。食べたくて食べているわけじゃないのに、と涙が出た」と話していた。
鈴木さんにその話を伝えると「分かる。もっといろんなもの、食べたいですよ」とうなずいた。「満腹感が得られるものを優先するからメニューが似てくる。でも仕方ない。食費が一番かかるから」。1日3食とも豚こまとモヤシの炒め物、となることもあるという。
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鈴木さんは今の会社で9年間働いている。倉庫に保管されている多数の書籍の中から、注文を受けた書籍を集めて発送する「ピッキング」と呼ばれる仕事だ。午前9時から午後5時まで週6日、巨大な倉庫の中を動き回り、書籍を箱に詰める。月の収入は手取りで12万~15万円ほど。時給は1013円、現在適用されている東京都の最低賃金と同額だ。
最低賃金とは、使用者が労働者に支払わなければならない賃金の最低額だ。最低賃金未満で労働者を働かせた使用者は罰せられ、その雇用契約は無効とされる。都道府県ごとに定められる地域別最低賃金は年に1度改定される。中央最低賃金審議会(厚生労働相の諮問機関)の議論を踏まえ、各都道府県に設置される地方最低賃金審議会で決められる。
鈴木さんの給与明細を見せてもらった。今年2月の支給総額は16万2747円(総労働時間141時間、時間外25時間など)で、ここから社会保険料、税金などが控除され、手取りは13万1337円。2月は働く日数が少ないため、賃金も他の月より低くなる。
業務が少ない日には、突然「午後3時で早帰り」などと指示があり、労働時間が短くなることもある。「仕事が少ないから有給休暇を使って休んで」と当日の朝に言われることも。一方で「残業が普段の倍あった」という5月の手取りは14万7476円だった。
給与明細を手に議論する鈴木真貴さん(左)と仲間の組合員=東京都文京区で2021年7月3日午後8時、東海林智撮影 ◇
鈴木さんは両親、兄との4人暮らし。父に介護が必要となり、母も高齢なので、介護と両立できる今の仕事に就いた。アルバイトだが職場は家から歩いて5分と近く、就業時間が「午前9時~午後5時」なのも魅力だった。それまでは化粧品やメガネの販売員、眼科のスタッフなど正社員で働いてきた。
だがこの9年間、賃金は都の最低賃金と同額のままだ。以前の仕事から手取りで6万~7万円ほど減った。8割以上は家計に回している。両親の年金収入が月額で計16万円程度。非正規雇用労働者の兄については収入の額、使い道とも分からない。
少しでも貯蓄しなければ老後が不安だ。家族4人の食費は自分の収入でまかなっている。一方でデイケアを週3回利用するなどしている父の介護にかかる費用は高額で、切り詰めた生活を送っている。
鈴木さんは労働組合に加入し、期間の定めなく働ける「無期転換制度」の適用を仲間とともに求めた。昨年8月から無期雇用の正社員に転じた。それでも待遇に変化はなく、ボーナスも退職金もない。だが春闘で待遇改善を求めても、会社は「賃上げは秋に実施する」と回答する。会社の時給を最低賃金と同額にしている現状を変えるつもりはないとの意思表示だ。
「最低賃金を大幅に引き上げるしか、私たちの生活を変えるすべはない」。鈴木さんはそう感じる。
同じ会社で最低賃金で働く仲間たちも過酷な生活を強いられている。交通費を節約するため数時間かけて徒歩で通勤する人もいれば、低賃金のため公的医療保険への加入を諦め、けがをしても診療を受けられない人もいる。1日の食事が納豆3パックとご飯2合だけという人も。実家で暮らす自分の方が、家賃が必要ないだけ、ましに思える。
家賃が払えなくなって住居を追い出され、行方が分からなくなった人もいた。鈴木さんが警察の照会を受けた際に聞いた話では、路上生活を余儀なくされ、冬の寒さに耐えかねて入ったコンビニでおにぎり1個を万引きして検挙された。
趣味は宝塚歌劇団の公演を見ること。以前は各組の公演を楽しんでいたが、次第にお気に入りの組だけになった。やがて公演は抜きで劇場への役者の出入りを見るだけとなり、それも劇場への電車賃を節約するために控えるようになった。
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最低賃金改定の目安額が審議されている施設の前で「全国一律1500円」などと最低賃金の引き上げを訴える労働組合関係者=東京都中野区で2021年7月13日午後2時、東海林智撮影 今年度の最低賃金を巡り、中央最低賃金審議会は7月中旬に時給「28円増」と引き上げの目安額を示した。今後は地方最低賃金審議会がそれぞれ協議し、各都道府県の最低賃金を決めていく。東京は「28円増」の目安の通りに引き上げることが決まった。時給にして1041円となる。
鈴木さんの手取りは月額で4000~7000円程度上がる計算だ。鈴木さんは、上がる分の使い道については「職場は窓が開けられず蒸し暑い。マスクもしている。暑さから身を守るために首元を冷やすネッククーラーかファンの付いたジャケットを買いたい」と語った。2000~5000円かかるという。
審議会の議論に参加する労働者は通常、労働組合のナショナルセンター(全国中央組織)で国内最大の連合から選出される。最低賃金で働く当事者が出席し、発言を求められることはない。こうした現状を踏まえ、鈴木さんは「ギリギリの生活です。まともに働けばまともに暮らせる賃金を得られる。最低賃金はそんな当たり前を支える制度であってほしい」と訴える。
最低賃金は数年来、全国加重平均(都道府県ごとの労働者数の差異を踏まえた全国平均)で20円台の引き上げが続いていた。だが、昨年度の改定は中央最低賃金審議会で「現行水準の維持が適当」として目安額を示さなかったことも影響し、前年度から1円増にとどまった。
昨年度は最低賃金の全国加重平均額が902円だった。今回の「28円増」の目安には経営側が反発しており、実現するかは見通せないが、仮に東京同様の「満額回答」が全国的に実現すれば、最低賃金の全国加重平均額は930円となる。例年8月中には各都道府県の金額が出そろい、10月ごろから適用される。【東海林智】